2008.10.06 Monday
急いで降りて来なさい
今日のデボーションは、エステル記9−10章、ルカの福音書19章です。
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ルカの福音書19:1−10
それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
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当時の取税人は、税金を水増しして取り立て、それを着服して身を肥やしていたそうで、人々からとても嫌われた職業だったそうです。
ザアカイもまた、そのようにして富は得ましたが寂しい人だったのでしょう。
イエス様が通られるという噂を聞きつけ、通りは人だかりになりましたが、背の低いザアカイに場所を譲る人はいませんでした。
人垣に阻まれ通りが見えないザアカイは、先に回っていちじく桑の木によじ登り、イエス様が通られるのを今か今かと待っていました。
そこにイエス様が通られ、人々のざわめきが上がったとき、イエス様はふと立ち止まられ、桑の木を見上げてザアカイを見ました。
そして「ザアカイ、急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。
ザアカイは仰天したに違いありません。なぜイエス様は自分の名前を知っているのだろう、なぜ我が家に泊まると言っているのだろう、という驚きと同時に、まわりから蔑まれ、相手にされない自分に、イエス様がみんなの前で名前を呼んでくれて、家に来ると言ってくれた!という喜びが、うわーっと押し寄せてきたに違いありません。
ザアカイは物見高い気持ちで木に登ってイエス様を「見下ろして」いました。
しかしイエス様は、低いところからザアカイを見上げ、呼びかけて下さいました。
私達の心もまた、そのようなものかもしれません。
「信仰は人生の役には立つだろう。教養も身につくだろう。確かにイエスは良い模範を示したかもしれない」と、信仰を高いところから見下ろしているかも知れません。
しかし、イエス様はご自身を低くされて、私達を親しく呼び寄せてくださいました。
イエス様は私達との個人的な「関係」を求めておられます。
私達が自分の王座から降りてイエス様に従うとき、主は本当のいのちの真理へと、私達を招いてくださるのです。
ザアカイは急いで木から下りてイエス様を家に案内し、心を尽くしてもてなし、そして貧しい人々に財産を施し、だまし取ったものを4倍にして返すと、イエス様に約束します。
ザアカイにとってイエス様が来て下さったことは、ただ単に家にお迎えしたという以上のことでした。
ザアカイは、自分の人生を変える主としてイエス様を心にお迎えしたのです。
まさしく、心に光が差して、新しい生き方を発見した瞬間だったことでしょう。
イエス様に声を掛けられたときの喜びを、ザアカイは一生忘れることがなかったと思います。
まさしくイエス様が言われたとおり、「きょう、救いがこの家に来た」のです。
人々は、「あんなザアカイのところに行くなんて、イエス様はどういう考えなのだろう」と、つぶやきました。
しかしイエス様は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われました。
まさしく、ザアカイはイエス様によって見いだされ、救われました。ザアカイ自身の失われた人生も見いだされ、新しいいのちをいただいたのです。
主よ、ありがとうございます。
あなたがザアカイに、親しい友のように声を掛けてくださったように、あなたは私達ひとりひとりに声を掛けてくださっています。
私の名を呼び、「その木から下りてきなさい。あなたの家に泊まろう」と言ってくださるのです。
主よ、あなたは私達の心の扉をいつも叩いてくださっています。
私達が扉を開けて、あなたをお迎えすることができますように。
あなたのあたえて下さる新しい人生を歩むことができますように。
あなたを喜んでお迎えします。そしてあなたに喜んで従います。
今日、皆さんがイエス様の訪問を受けることができますように。
心の扉を開いて、喜んでお迎えし、イエス様に人生を明け渡すことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.10.05 Sunday
わたしに何をしてほしいのか
今日のデボーションは、エステル記3−8章、ルカの福音書18章です。
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ルカの福音書18:41−43
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、
彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
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イエス様は、「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねられます。
盲人は目が見えないのですから、見えるようになることを願っているでしょうし、病のある人は癒しを願っているでしょう。
しかしイエス様は、敢えて「何をして欲しいのか」と私達に聞かれるのです。
本当に、心からそのことを願っているか、主がそれをしてくださると、心から信じているか、と問われるのです。
私達がイエス様に何を求めているかを、イエス様に告白することが大切です。
自動的に主が私達に祝福を下さるのではなく、私達の主体的な意志と信仰を主は求められます。
盲人は、「主よ、目が見えるようになることです」とイエス様に答えました。
イエス様が「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直した」と言われたように、彼は物理的にただ目が見えるようになっただけではなく、信仰によって霊的な目が開かれ、イエス様が神の子であり、救い主であることを瞬時に悟ることができたのです。
私達もまた、「主よ、見えるようにしてください」と求める事ができますように。
見えていると思っていても見えていない者だったり、信じていると言いながら実は信じない者になるのではなく、主の真理をしっかりと見、悟り、信じる者となりますように。
今日、全ての教会で持たれる礼拝に、主の豊かなご臨在と祝福がありますように、心からお祈りいたします。
皆さんの心に、主への確信がさらに増し加えられ、信仰が強められますように。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.10.03 Friday
神は、あなたがたの心をご存じです
今日のデボーションは、旧約エズラ記5-6章・詩篇138編、新約ルカの福音書16章です。
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ルカの福音書16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」
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人の称賛は、大きな誘惑です。誰でも正しい人だと言われたいでしょうし、間違いを指摘されたくはないでしょう。
人の非難を受け入れるのは、相当な勇気が必要です。
しかし私達は、事が正しかろうがそうでなかろうが、その本質よりも「人の反応・評判」の方を気にします。
神の真理に従うことが、いつも周囲に理解されるとは限りません。
人の常識や価値観、受けの方が、私達にとっては判断基準になりやすく、また周囲にも理解されやすいと思います。
律法学者やパリサイ人たちにとっては、律法を「行うこと」がステータスであり、権威であり、自分を正当化し、人より上に立つ理由でした。
しかしそこには、へりくだって神に従う心や、自分を罪あるものと認める心が欠如していました。
それはすなわち、律法の行いだけで、そこに込められた神の真意は理解していなかった、ということだと思います。
彼らの心は、いつも人と自分に向けられていました。
人が自分をどう評価するか、自分のプライドを満足させているか、そのことが彼らの関心の中心でした。
「律法を行うことで"神に従っている"」ということ自体が、彼らのプライドであり、神から遠く離れた心だったのです。
律法は誰にも完全に行うことができません。
律法を完全に成就できるお方は、イエス様の他にはいませんでした。
私達はどんなに自分の力で頑張ったとしても、神の完全な聖さに達することはできません。
私達は不完全であり、決して神と同等になることはできないのです。
完全に律法を守ることのできるお方、イエス様を通してでなければ、私達は決して義とされることはないのです。
私達が心から神を必要としない限り、私達は正しい者とはなり得ません。
どんなに人からの称賛を求めたとしても、それは神からの称賛とはならず、むしろ忌み嫌われるものとなります。
等身大の自分を認め、神の愛とあわれみに信頼し、私たちの努力によらない、一方的な神からの恵みをへりくだって受け取るとき、私達は神に受け入れられ、赦され、義とされると信じます。
主よ、あなたのあわれみと慈しみに心から感謝します。
私達が人の価値基準ではなく、あなたが与えて下さる恵みによって生きるとき、あなたは私達の理解を超えた深い真理を、私達に悟らせて下さいます。
私達が移ろいゆく人の価値観や称賛に頼り、根無し草のように生きるのではなく、あなたにしっかりとつながって生きることができますように。
私達の中に完全さがあるのではなく、あなたの完全さのうちに生きることで、日々変えられることができますように。
私達の心が、あなたの御前にいつも誠実でありますように。
神様と皆さんとの関係が豊かに祝福されますように。
まっすぐな心で主と向き合うことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.10.02 Thursday
放蕩息子の兄
今日のデボーションは、ゼカリヤ書13-14章、詩篇147編、ルカの福音書15章です。
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ルカの福音書15:25-32
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
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有名な放蕩息子の話ですが、この後半は、兄の視点から書かれています。
放蕩三昧の末に家に帰ってきた弟のために、父が大宴会を催しているのに気づいた兄は、怒りを覚えます。
しかし兄は、実はお父さんに対して怒っているのです。
『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』(29-30節)
兄は父に対して、「どうしてこんな奴にこれだけのことをしてやって、僕には何の見返りもないんだ」と言っているのです。
自分は父の戒めを一度も破ったことはないし、ずっと仕えてきた。それならば、僕にも何かくれてもいいじゃないか、ということです。
弟のことがきっかけとなって、兄の心の内にあった「見返りを求める心」が露わになってしまいました。
実は兄が父に従う態度の心は、父への愛による応答としての忠実さではなく、見返りを求めての振る舞いであったことを、兄自身が思わず告白してしまったように感じます。
しかし父はこのように兄を諭します。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』(31-32節)
父と一緒にいるということは、父の全てを相続しているということです。
これは、私達と神様との関係についてあらわされています。
私達が神につながる限り、神はすべてのものを惜しみなく私たちに与えて下さっています。
しかし私達は、いつも神様に「足りない」と文句を言っているような者なのです。
さらに神様は、失われたたましいを探し求めています。
私達が砕かれた心で神の許に転がり込むようにして戻ってきたとき、父なる神は私達を遠くから認め、走り寄り、抱きしめて下さるのです。
そのような神の無限の愛に対し、私達は他の人を指さして、「どうしてあの人が赦されるのですか!?どうしてあの人があんなにいい思いをするのですか?私のほうがよほどあなたに従っているのに」と言ったりします。
裁くのも赦すのも主の主権によって行われます。
神が赦されるものを、私達が糾弾することはできません。
与えるのも、取り去るのも神様です。しかしまた私達には、いつでもそれぞれに充分すぎるほどの素晴らしい恵みが、主によって満たされているのです。
私達にはなんと、神の測り知れない愛と恵みによって、キリストご自身のいのちが与えられ、神の御国が与えられているのです。
それに代わるほどの価値あるものを、私たちは知っているでしょうか。
主よ、ありがとうございます。
私達があなたから頂いているものの本当の価値を知ることができますように。
どうか私達があなたの真理を知ることができるように、私達の霊の目を開いてください。
あなたが私たちに与えて下さっている、あなたご自身の永遠のいのちに目を留めることができますように。
主よ、今日も私達に与えられている豊かな恵みに、心から感謝します。
主の恵みを数えて、今日も喜んで過ごすことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.10.01 Wednesday
詩篇126編
今日のデボーションは、ゼカリヤ書10-12章、詩篇126編、ルカの福音書14章です。
今日はこれから学校がありますので、詩篇126編をUPしておきたいと思います。
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都上りの歌
主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
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捕囚から開放されたユダヤの人々の喜びが歌われています。
それはまるで夢を見ているようであり、人々の笑顔と喜びで満たされている様子が描かれています。
私達もまた、滅びの奴隷からいのちへと移されたことを、毎日喜び祝うことができますように。
人生の労苦を耐え忍び、飽くことなく主の御心を行うことができますように。
やがて天の御国で、私達の涙はすっかり拭われ、豊かな永遠のいのちの収穫に与ることができるでしょう。
今日も種袋を抱えて出てゆきましょう。
主が皆さんに励ましと力を与えて下さり、今日も人生の旅路を歩むことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.09.29 Monday
全てをご存じである主
今日のデボーションは、旧約ゼカリヤ書4-6章・新約ルカの福音書12章です。
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ルカの福音書12章2-3節
おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
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詩篇139編に、このように書かれています。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。・・・」
主は私達の全てをご存じです。
アダムとエバは、食べてはいけないと言われていた実をたべたあと、神が近づいてこられる気配を感じて隠れました。
神はふたりに「あなたは、どこにいるのか。」と声をかけました(3:8-9)が、神様は決してふたりの居所が分からなかったからではなく、神から離れた心について、問いかけたのだと思います。
私達は、自分の罪や間違った動機を、主の前に隠そうとします。
そして正しい行いや律法によって覆い、あたかも自分が間違ったことをしていないかのように振る舞います。
しかし、そんなことは主の御前に全く無意味です。
私達の罪も、過ちも、欠けも足りなさも、不完全さも、主は全てをご存じです。
私達の最大の問題は、私達が不完全であることそのものよりも、それを隠そうとし、偽りの態度で神を騙そうとするその心なのだと思います。
主は私たちのどんな過ちも罪も、赦すことのできないようなお方ではありません。
主の十字架は、ある罪に対しては赦しの効力を発し、ある罪に対しては効力がないような不完全なものではありません。
私達が主に誠実で正直である限り、主は私たちの罪や欠けを完全に取り扱い、聖め回復させることができるお方なのです。
ですから、私達は主の前に取り繕うことも、偽善をおこなうこともする必要はありません。むしろそのような行いは、主と自分自身との関係を損ない傷つけるものです。
主は人のように騙したりごまかしたりすることのできないお方です。
主の御前に正直にあることができますように。
間違った恐れや不信を抱くことなく、完全に赦すことのできるお方の権威を正しく畏れ、全能の主に心から信頼して、ありのままの自分自身を差し出すことができますように。
主よ、あなたを正しく畏れる心を私達に教えて下さい。
私達が自分の方法で取り繕ったり、あなたに偽ることがありませんように。
むしろそのような罪から離れ、私達の不完全さをありのままあなたに差し出し、あなたが私達を完全に回復させる権威をお持ちであることを認めることができますように。
私達の最大の罪は、あなたとの断絶です。
主よ、どうか私達が日々、あなたの福音に立ち返り、あなたに繋がり続けることができるように、助け導いて下さい。
あなたに信頼します。
新しい一週間がまたやってきました。
秋の夜長、主の御前に心鎮めて、深い交わりの時を持つことができますように。
主の果てしない恵みと赦しに信頼して、主に近づくことができますように、お祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.09.27 Saturday
あなたも行って同じようにしなさい。
今日のデボーションは、ハガイ書1-2章、詩篇129編、ルカの福音書10章です。
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ルカの福音書10:30-37
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
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この話は、良く読んでみると、かなり痛烈な話だと感じます。
まずイエス様に「私の隣人とはだれですか?」と質問をしたのは、律法学者です。
律法学者とは、もちろん律法=神の命令に詳しく、人々に教え戒める側の人だと思います。
彼はこの手前でのイエス様とのやり取りで、律法とは、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』そして『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という2つの命令に要約されるのだ、ということを、自ら答えています。
にもかかわらず、彼は「その隣人とは誰なのですか?」とイエス様に問うています。
イエス様の答えはとても痛烈です。
この物語に出てくるおもな人物は、強盗に襲われた人、そして、祭司、レビ人、サマリヤ人です。
強盗に襲われた人は、「エルサレムからエリコに下る」道を歩いていたことから、おそらくユダヤ人だったのでしょう。
祭司とレビ人は、どちらも律法学者と同じく、律法を厳しく守る側であり、神に従う立場の者です。しかし彼らは、強盗に打たれて倒れている人を見ると、その人を避けて通りすぎます。
なぜでしょうか。
彼らは律法にあるとおりに「自分の身を汚してはならない」と考えたに違いありません。しかし、律法の一部分だけではなく、全体を貫く神の命令は何なのかを、理解していなかったのではないでしょうか。
もし、律法学者が答えたとおりに、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛する』こと、そして『あなたの隣人をあなた自身のように愛する』ことが、律法の核であるとほんとうに理解していたならば、全ての行いの動機がこの2つにあるべきだと、彼らは気づいたはずでした。
しかし、この物語の中で、祭司もレビ人も、自らその律法の根幹を守れずにいることが露呈しているのです。
そこに1人のサマリヤ人が通りかかりました。
サマリヤ人は、異民族との雑婚によって生まれた民族であったために、ユダヤ人は彼らを忌み嫌っており、普通、サマリヤ人とは関わりを持ちませんでした。
しかしそのサマリヤ人が、倒れているユダヤ人を見て、あわれんで介抱し、宿屋に連れて行き、自分の懐からお金を出して宿屋の主人に世話を頼むのです。
「デナリ2つ」とは、当時の1日分の生活費がおおよそ1デナリだったそうです。彼は2日分の生活費を見ず知らずの人に、しかも自分たちを忌み嫌っているユダヤ人のために支払います。
そして、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」とまで言うのです。
律法学者は、この話を聞いて、強盗に襲われた人の隣人となった人は、自分たちが忌み嫌っているサマリヤ人であったことを認めざるを得ませんでした。
律法学者はこの話を聞いて、「本当の隣人はそのサマリヤ人です」とはダイレクトに口にできなかったようです。
やはり彼の立場がそれを許しませんでした。彼はおそらく、ごくりとのどを鳴らすようにして、やっと「その人にあわれみをかけてやった人です。」と言うのが精一杯だったのではないでしょうか。
律法を厳密に守るから、また民族や立場が清いから正しいのではなく、律法の心、本当に神様が求めていることをする者が正しいのだ、と言うことを、イエス様は言いたかったのだと思います。
私達の心に、律法的な視点はないでしょうか。
「私は教会に毎週通って、献金も奉仕もこんなにしている。でも、あの人はあんまり礼拝にも来ないし、あれもこれも守っていない。」
しかし、私達は、本当にイエス様の心を行っているでしょうか。
誰かのために時間や犠牲を割くこと、自分の立場を守ることよりも、心からへりくだって、神様と人への愛を心からあらわすことを。。。
私達には完璧にそれを行うことはできないかもしれませんが、せめて、「自分はあの人よりも正しい」というお立ち台からは、降りたいものだと思います。
主よ、ありがとうございます。
私達のうちにある、律法的な自分に気づくことができますように。
人を裁き、欠点をあげつらうとき、実は私達自身が神の戒めを守っていないことに気づかされます。
裁くのは主ただおひとりであり、私達ができることは、互いに赦され、受け入れられている者同士として、仕え合い受け入れ合うことなのだと思います。
しかし、私達の心は何と狭く、何と弱く、何と強情なものでしょうか。
どうか私達の心を日々新しく聖め、あなたの愛で満たしてください。
あなたのあわれみに心から信頼します。
この週末、私達の周囲の人々に、愛を表すことができますように。
律法によって自分の義を打ち立てるのではなく、私達が愛され赦されているように、人々に愛をあらわすことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.09.26 Friday
主が家を建てるのでなければ
今日のデボーションは、エズラ記4章・詩篇113,127編、ルカの福音書9章です。
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詩篇127:1-2
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
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私達の人生の大きな計画も、また安全への備えも、私達自身の知恵や力には限界があります。
どんなに素晴らしいプロジェクトであっても、それが単に人の満足で終わるならば、それはいっときの成功でしかありません。
技術と経済の限りを尽くして世界一の建物を建てたとしても、やがてそれを越える技術とお金によって、さらにすごい建物が建ったならば、それは世界一ではなくなるでしょう。
また、どんなに危機管理をしたとしても、完全な安全は誰にも保証できません。
私達は自然の力に打ち勝つことはできませんし、全ての災害から身を守ることは不可能です。
私達の力や知恵は限界があり、不完全なものです。
完全なお方は神様の他にはいません。
私達がどんなに寝る時間を削ってあらゆる問題に対処し、悩み恐れ苦しんだとしても、私達に完全な安心はやってきません。
主は、私達がたとえ眠っていたとしても、私達を守り、必要な全てを備えて下さるお方です。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか………
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
(マタイ6:26-34)
主よ、心から感謝します。
あなたは私達の必要を全てご存じでいて下さり、それを私たちに与えて下さいます。
私達は、あれこれいろいろなものを求めて悩んだり、心配したり、備えたりしています。
しかし何よりも私達が求めるべきは、あなたご自身です。
あなたが私達を生かし、全てを与え、守って下さることを感謝します。
私達が他の何かにより頼むのではなく、あなたご自身により頼むことができるように、どうか日々私達を励まし強めて下さい。
あなたに信頼し、あなたに心から期待します。
今日も心から主に信頼して歩むことができますように。
様々な思い煩いや、自分の不完全な力や計画に依り頼むのではなく、主が全てを満たして下さるお方であることに信頼して、完全な平安を得ることができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.09.25 Thursday
喜びの叫び声と民の泣き声
今日のデボーションは、エズラ記2-3章、ルカの福音書8章です。
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エズラ3:10-13
建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。
そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。
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バビロン捕囚から解放されてエルサレムとユダに戻ったイスラエルの民は、まず全焼のいけにえを捧げて主を礼拝し、そして神殿の再建に取りかかりました。
主の神殿の礎が据えられたとき、民は楽器や賛美で主をほめたたえ、礼拝しました。
民は新しい神殿のために喜び叫び、祝いましたが、破壊された最初の宮を知っているレビ人、祭司、一族の頭達は、新しい神殿の礎を見て、声をあげて泣きました。
彼らは老人になり、人生の終わりになって、やっと待ち望んだ神殿の再建を目にすることができたのですが、初めの神殿に比べてあまりに小さい土台を見て、悲しみ嘆いたのです。
神殿の再建を喜ぶ声と、失われたエルサレムの栄光を嘆く悲しみの叫びとが、その地一帯にこだましました。
それはどんなに大きな叫びと歓声だったことでしょうか。
私達は、主に叫ぶことがあるでしょうか。
私達の心に、叫ぶほどの神への喜びや飢え渇きがあるでしょうか。
神への喜びと感謝と、神の栄光を飢え渇いて求める心の両方が、私達ひとりひとりの内側に必要なのだと思います。
主よ、ありがとうございます。
私達に、喜び叫ぶほどにあなたを礼拝する心、そして飢え乾くほどにあなたを求める心を与えて下さい。
日々、私の心が絶え入るばかりに、あなたを慕い求めることができますように(詩篇119編)
どうか真実な心であなたに近づき、あなたを礼拝することができますように。
今日も私達の心に深く触れて下さい。
ほかの何ものにも代えがたい、主の慈しみと恵みを追い求めることができますように。
今日も皆さんの1日に、主の祝福が豊かにありますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪
2008.09.24 Wednesday
恵みとまこととは、互いに出会い
今日のデボーションは、エズラ記1章、詩篇84-85章、ルカの福音書7章です。
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詩篇85:10-11
恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。
まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。
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ほんとうに、何と美しい表現でしょう。
天の父なる神とイエス様の親密で真実な関係、そして主と私達のあるべき関係を美しく表していると思います。
神のこの世に対する恵みと慈しみによって、イエス様は人となってこの世に来られ、私達にまことと平和をもたらしてくださいました。
天の父なる神とイエス様の、恵みとまことによる関係、神の完全な義と平和の君なるイエス様の関係を通して、私達も神との真実な関係に与ることができます。
イエス様に繋がることで、神の恵みと、イエス様を信じる真実な心(まこと)は互いに出会い、神の義と、イエス様によって私達のうちに与えられる平和は互いに口づけします。
主の慈しみ、恵み、その完全な義に私達が真実に応答するとき、そこに本当に深い主の平安があります。
私達は、主に結ばれていることを、聖霊が心に与えて下さるその深い平安によって知るのだと思います。
「義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。」(13節)
私達は不完全であるにもかかわらず、イエス様を信じる信仰によって義とされ、イエス様と父なる神との親密な関係に与ることができるのです。
私達がどんなに不完全で弱く、罪があり、痛み悲しみと格闘していたとしても、イエス様を信じる信仰によって、それを包み隠さずありのまま差し出したとき、主は私達の砕かれた心を、ご自身の深い平安で包んで下さいます。
そのような自分を隠そうと主に背を向け離れるのではなく、主が完全に癒やし、赦し、回復させて下さるお方であることを心から信じて、むしろありのまま主の御前に近づき、心の重荷を主に差し出す事がとても大切だと思います。
今日のもうひとつの箇所、ルカ7章の36-50節は、まさしくそのようなシーンだと思います。
私達の真実な心が地から生えいるように天にまっすぐ向かうとき、主の義は天から私達に向かって、溢れる恵みと慈しみ深い御目を注いでくださっているのです。
主よ、ありがとうございます。
あなたは私達を、神との真実な関係のうちに招いてくださり、あなたを信じる信仰によって、神との平和を与えて下さいます。
不完全な私達を、あなたの義によって聖めてくださり、完全に赦し愛して下さいます。
主よ、あなたのその大きな恵みを私達が本当に理解することができますように。
あなたへの信頼と信仰を増し加えて下さい。
ありのままの私達を、あなたの御前に差し出すことができますように。
今日もありのままの真実な心を主の御前に差しだし、平安のうちに過ごすことができますように、心からお祈りいたします。
God Bless you,
♪KUMI♪